• 1868(明治元年)

    長崎奉行所勤めだった荒木作次を父とし、唐人屋敷のあった長崎の十善寺町に初代荒木源四郎が生を受ける。

    1882年(明治15年)当時、語学教育の最高峰とされた長崎外国語学校に入学、この就学が企業人としてのちに源四郎を大きく羽ばたかせるきっかけとなった。

    1886年(明治19年)長崎外国語学校と統合した長崎商業学校を卒業し、三菱長崎造船所に入社する。四年の試用期間を経て、工場勘定方として正式採用される。

  • 1912(明治45年)

    造船所に在籍しつつ、様々な事業に出資。グラバー二世、倉場富三郎の知遇を得て、起業家としても順調な人生を歩む。モノの始末を大事に、現場第一主義であり、研究熱心な姿勢はこの頃より。

  • 1892(明治25年)

    入社後は英語が話せる貴重な人材として、三菱長崎造船所でも重要な職につく。社歴を重ねるに連れ、外国船の船長らの接待を務めることとなる。

  • 1919(大正8年)

    前年の1918年(大正7年)7月、源四郎は長く務めた三菱長崎造船所を定年退職。退職金は1万円、現在の価値にすると1億円はあったという。

    この頃、トロール漁業への投資や蓄電池式集魚灯開発事業、株取引など様々な事業を手がける。集魚灯の開発では神戸電機製作所と共同出資で"長崎電気集魚灯株式会社"を設立、集魚灯のパイオニアとしてその歴史に名を刻む。長崎の三大成金と囃されたのもこの頃である。

    源四郎51歳にして、出島の一角長崎市千馬町に菓子店「扇正軒」を創業。カステラづくりに精を出す。
    大正9年、世界的な金融恐慌のあおりを受け経営が悪化していく。

  • 1924(大正13年)

    経済恐慌により手がけた事業を失った源四郎は長崎を後にし、唯一残ったカステラ業で再起を図るため大阪へ。
    大阪市東区大手通(現中央区大手通)に格好の家を見つけ「合資会社長崎堂」を起ち上げる。

  • 1928
    (昭和3年)

    南蛮伝来秘法そのままにー をキャッチコピーに宣伝。

  • 1928(昭和3年)

    天王寺公園で開かれた大阪府主催の「交通電気博覧会」に電気釜を出品、カステラを焼いて見せる。
    創意工夫を心がける源四郎の精神が発揮される。

  • 1929
    (昭和4年)

    昭和天皇から大阪行幸の折りに買い上げの栄に浴す。

  • 1934(昭和9年)

    缶詰カステーラの発明特許を取得。カステラの日持ちを良くすることに成功する。 発明の名称は「長期保存に耐えられるカステーラ類の製造方法」であった。

    商品特性を活かし、満州・南洋群島・東南アジアに缶詰カステーラを送り好評を博す。
    研究熱心であった源四郎の姿が、この商品からもうかがえる。

  • 1937-1938(昭和12〜13年)

    広告宣伝活動も活発に行う。

    まだ認知が低いカステラをタダで配り、味を知ってもらう努力をするなど、粘り強く宣伝に努めた甲斐もあり、 高麗橋の三越、堺筋や天満橋の白木屋(現東急百貨店)、梅田の阪急百貨店との取引も始まる。

    創業からの苦境を漸く乗り越え、広告代理店の萬年社より猛宣伝を開始、デザイナーに二渡亜土を起用し斬新なデザインを採用する。

    苦労の末に缶詰カステーラもヒットし、この頃より大阪にもカステラ文化が定着しはじめる。

  • 1938(昭和13年)

    次男の正紀を責任者として、名古屋支店を開設する。

    往時の源四郎は、当時の中小企業の経営者に似つかわしくないハイカラな感覚の持ち主でもあった。経営も軌道にのったこの頃、当時には珍しく賞与を"ボーナス"と称し、従業員に支給する一面もあったそう。

    写真は晩年の源四郎。

  • 1942(昭和17年)

    太平洋戦争の激化による経済統制により、操業を一時中断せざるを得なくなる。

  • 1943(昭和18年)

    天神橋南詰めの店舗は引き払い源四郎は名古屋へ。それにより経営は二代目敏夫に継承される。

  • 1950(昭和25)

    経済統制の緩和にあわせて本格的に菓子づくりを再開し、この年にはカステラの生産を復活させる。

  • 1951(昭和26年)

    缶詰カステーラで2度目の特許を取得する。

    缶詰カステーラがヒマラヤの高峰「アンナプルナ」登山隊の携行食として採用される。

  • 1951(昭和26年)

    周防町(現中央区心斎橋2-1-29)現在の本店の場所に「本舗 長崎堂」の看板を揚げる。

    当時の周防町は、老舗が並び賑わう心斎橋筋に面しているものの人通りの少ない町であったが、古きよき大阪が息づき、文化度が高くてええところ、という敏夫の考えもあり、この地に念願の店を構えることとなった。

  • 1954(昭和29年)

    会社組織を改め、本社を周防町(現本社)に置く。

    このころ一郎の学友の父を通して、作家武者小路実篤と親交が深まり、包装紙のデザインを依頼することとなった。バラの絵が描かれた掛け紙が出来上がり、カステーラ等に使用する。(昭和29年から38年まで使用)
    このバラの絵の掛け紙は大きな評判を呼ぶ。

    後の昭和36年には直筆で激励の手紙を貰うなど、良い関係を築く。

  • 1958(昭和33年)

    この頃、経営が悪化し、名古屋の源四郎、正紀、一郎、そして敏夫らで再建の道を探る。

  • 1960(昭和35年)

    同業の老舗や取引先のサポートもあり、会社を整理、組織を改め株式会社大阪長崎堂を設立することに。
    三代目荒木一郎が26歳の若さで代表権を持つ。

  • 1965(昭和40年)

    三代目荒木一郎が新生「大阪長崎堂」の代表取締役に就任する。

    百貨店やスーパーへの積極的な出店により、経営状況も良化していく。
    大丸、三越、阪急百貨店の売場の他、近鉄百貨店や松坂屋などにも出店をはたしていくこととなる。

    また店舗のみならず工場の整備にも着手、正紀が購入していた杉本町の土地で工場を稼働させる。

  • 1967(昭和42年)

    大阪市住吉区杉本町に本社工場を新築する。さらに、同44年には鉄筋二階建ての工場を増築する。現在に亘り、長崎堂を支える工場となる。

  • 1970
    (昭和45年)

    難波の地下街「虹のまち」等に新規出店するなど、活発な動きを見せる。

  • 1970(昭和45年)

    この年、大阪府吹田市で日本初の国際博覧会、大阪万博が開幕。

    このビッグイベントへの出店は、再建で出遅れていた長崎堂が大きく飛躍するきっかけとなった。
    社内も大忙しとなり、一郎も千里の万博会場と杉本町の工場を何度も往復するほどであった。

  • 1973(昭和48年)

    昭和38年ころより、昭和の都市モダニズムを体現した版画家として高い評価を受けている前田藤四郎にデザインを依頼する。

    カステーラのパッケージや、太陽の塔をモチーフにした記念包装紙、三本マストの南蛮船のイラストを描いた包装紙などが好評を博す。

    付き合いは家族ぐるみとなり、土蔵を改装し前田自らが内装をデザインしたアトリエを度々訪れた。

  • 1973(昭和48年)

    この年、前田藤四郎に本店看板のデザインも依頼する。このように武者小路実篤や前田藤四郎等、作家や芸術家と幅広く接することで、長崎堂はデザインに対する考え方に大きな影響を受けた。

  • 1973年頃(昭和48年)

    心斎橋の本店で、今も美しい音色を奏でる"オルゴール"をこの頃、購入する。

  • 1980
    (昭和55年)

    クリスタルボンボンがこの頃発売される。今も高い人気を誇る商品となる。

  • 1982(昭和57年)

    前年の昭和56年、作家の田辺聖子さんが心斎橋本店を訪れる。 この年に刊行された「苺をつぶしながら」にて、その時の様子がオルゴール、クリスタルボンボンと共に紹介される。これをきっかけに、田辺聖子夫妻との交流が始まる。

  • 1982(昭和57年)

    長崎堂ならではの、そして若き日に願った「本物のカステラをつくりたい」という想いのもと、一郎はカステラづくりの原点に立ち返り、商品開発を進める。

    試行錯誤を重ね、大正末期のレシピと江戸初期の材料配分を忠実に再現して開発した"復元カステーラ"が出来上がる。

    初代源四郎の精神に倣い、手焼きにこだわり材料にこだわった、この"復元カステーラ"は好評を得ることとなり、今では指名買いの最も多い商品となった。長崎堂の看板とも言えるカステラである。

  • 1983(昭和58)

    周防町がまちづくりのモデル地区となり、連合会にも参画。レンガタイルで覆われた美しい通りになったのもこの頃より。昭和58年に着工、昭和62年に完成した。

  • 1987(昭和62年)

    二十年以上の長寿を保つ商品がこの頃多く開発される。
    若葉に映える雨の雫をイメージし、素材を吟味し丁寧につくりあげた"万葉雫"は今や夏の定番商品となった。赤米という貴重な古代米との出会いをきっかけに"赤米寿"をつくりあげた。販売は月のうち一日と十五日のみの珍しい商品。

  • 1988(昭和63年)

    昭和26年二代目敏夫が現在地に「本舗 長崎堂」の看板を掲げ、昭和54年にはティーサロンを設けるなど全面改装、そしてこの年11月に4階建ての店舗を新築落成する。平成25年のリニューアルまでの25年間、長きに亘って本店としての役目を務めることとなる。

    1階がショップで、雰囲気の良い階段を上がった先の2階はティーサロン。特に新築後は、沢山のお客様が訪れ"行列の出来る店"として、方々で紹介される。

    3階にはホールを設けて、月に数回は歴史や古典などの文化サロンを開催する。友人の寄付によるグランドピアノで、皆で弾き語る「歌の会」も百回以上も重ねて開催された。
    町に文化の彩りを添えたいという志が、この場所で様々な形となった。

  • 2003(平成15年)

    四代目の荒木貴史が代表取締役に就任する

    大阪四ツ橋に新たに営業本部を開設、全社機能を集約させる。
    3つの新機軸
    ・「新ブランドの開発」
    ・「営業本部の設置」
    ・「企画・デザイン部門の独立・分社化」
    を打ち出し、企業として更なる成長ができる体制を整える。

  • 2010(平成22年)

    節目となる90周年記念式典を開催する。
    長崎堂のカステーラが大阪府より「大阪産(もん)名品」の認定を受ける。後にカステララスクも同様に認定を受ける。

  • 2011
    (平成23年)

    JR大阪三越伊勢丹に"1919長崎堂"にて出店。

  • 2013(平成25年)

    心斎橋本店をリニューアル。

    本店ならではの魅力を再発信すべく、従来の長崎堂の商品に加えて、テーマを"原点回帰"とした「1919長崎堂」として新たに商品やデザインを開発する。

    また店舗機能の他に、管理本部・企画開発本部を有し、心斎橋本店は名実ともに本社本店としてグループの中枢を担うこととなった。

  • 2013
    (平成25年)

    1919長崎堂 あべのハルカス近鉄本店に出店。

  • 2014(平成26年)

    中国・上海City'Super各店に出店。
    日本国内のみならず、海外への出店も積極的に行う。

  • 2019(平成31年)

    創業より100年を迎える。長崎堂ブランドを中心に、さまざまな100周年記念プロモーションを展開。

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